山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 551)

2013・12・9(月) 昭和16年12月8日の謎

今から72年前のこの日「帝国陸海軍は西太平洋において米英両国と戦闘状態に入れり」というラジオ放送が流れ、日本中全国民は朝から興奮状態に陥った。

これはまさに長年にわたる鬱屈を晴らす一大壮挙と受け止められた面もある。昭和6年9月の柳条溝の満鉄爆破を切っ掛けに満州事変が発生し、それ以来延々とつづく戦争に何とか区切りをつけたいという国民の願は、この全く無謀な戦争へ突入する糸口となった。

想起すれば長い長い年月にわたる時代の流れがある。昭和7年には国際連盟のリットン調査団が来日し、満州国建国を批判した。戦は上海事変に飛び火し、一旦日支停戦協定に調印したが、海軍若手により5・15事件が発生、犬養首相が射殺され、時代はいよいよ暗くなっていった。

昭和8年には松岡洋右全権が国際連盟を脱退し日本は孤立を深めた。因に昭和9年にはヒットラーが独首相になっている。

ワシントン海軍軍縮条約が廃棄になり、戦艦保有比 米・英・日の5・5・3は解消した。昭和11年にはロンドン軍縮会議から日本が脱退し、無制限軍縮拡張時代に突入した。

降る雪の中、2・26事件が発生し、陸軍青年将校が下士官兵1400を率いてクーデター、高橋蔵相他重臣を殺害。昭和天皇は叛乱軍と決めつけ武装解除を命じた。広田弘毅が首相となり、日独防共協定が調印された。

昭和12年7月には北京郊外盧溝橋で日支両軍衝突、通州事件が勃発、日本人180名殺害された。上海事変(第2次)が発生、11月には日本軍が杭州湾上陸し首都南京を占領したが、蒋介石は重慶に移り抗戦、この時米艦パネー号撃沈事件が発生した。

昭和13年1月近衛首相が対支和平工作を打切り、「爾後蒋介石を相手にせず」と声明。いよいよ日支事変は先が見えぬ泥沼化してきた。9月には広東占領、武漢三鎮占領、11月には汪兆銘が重慶を脱出し、日華協議を始めた。

昭和14年ノモンハン事件発生、日本軍はソ連軍と戦い、大打撃を受けた。米国は日本通商条約の廃棄を通告してきた。ドイツは日独防共協定を無視し、独ソ不可侵条約を締結。「国際情勢は複雑怪奇」として平沼騏一郎内閣総辞職。

昭和15年日本軍仏印進駐、日独伊三国同盟調印、大政翼賛会が発足し、戦時統制国家へ踏み出した。昭和16年日米諒解案交渉始まるも8月米国石油対日輸出禁止。10月は日米交渉で内閣意見分裂し東条英機内閣成立。11月日本軍の支那大陸から全面撤退を求めるハルノートが届き、対米交渉甲乙案と帝国国策遂行要領を決定、いよいよ戦争へ踏み出すこととなった。

12月御前会議、対米英蘭開戦決定、12月8日ハワイ真珠湾空襲、特殊潜水艦5隻侵入、9軍神の戦死発表、酒井少尉捕虜第1号となる。かくて4年にわたる太平洋戦争に突入したのである。

これは歴史の必然か、戦を回避する知恵はなぜ出なかったのか。本当に難しい謎である。

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山中 千代衛