山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 599)

2014・11・17(月) 来し方行く末

戦争を経験した人々が段々少なくなり、国民の大半が平和の時代に育った今日此の頃である。総理大臣の安倍さんにしても、全くの戦後育ちで厳しい戦時を知らない。

明日の命が保証されない状況におかれ、一死報国を国是とするような時代、マスコミも各社競うように聖戦完遂を社説で唱える世の中はまことに悲壮なものである。

昭和6年の満州事変で戦が始まり、昭和12年の支那事変の頃までは内地はどちらかと言えばゆったりとしていたが、昭和15年日独伊三国同盟のあたりから世相は厳しくなってきた。英米を中心とする連盟国と日独伊枢軸国との対立が決定的となり、米国がハルノートを突きつけ対日禁油に及んで、日本は追いつめられて仏印進駐し、事態は悪化、遂に昭和16年12月太平洋戦争に突入した。

緒戦では帝国陸海軍の力量が発揮され、西はシンガポールからインドネシア、東はハワイにまで戦果を広げ、南はソロモン諸島からポートモレスビーに及ぶいわゆる大東亜共栄圏を形成し、対英米不敗の体制をとる姿勢を示した。しかしこれが精一杯の戦線であった。

昭和17年6月ミッドウェイ海戦でわが国は虎の子の航空母艦赤城、加賀、蒼龍、飛龍を失い、その後の戦況は次第に劣化していった。米軍の反攻が始まったのである。それから日本は防戦一方となり、昭和18年2月ガダルカナル撤退、昭和18年11月マキンタラワの玉砕、昭和19年6月のマリアナ沖海戦で完敗し、航空母艦が全滅した。

昭和19年10月の台湾航空戦では航空機をかき集め大攻撃を米艦隊に加えたが、殆んど成果がなかった。しかるに大本営発表では航空母艦11隻、戦艦2隻撃沈の大勝利が宣伝され、国民はその戦勝に酔うという悲劇だった。この後米軍はルソン島、沖縄へ侵攻し、遂に昭和20年日本は敗戦に至った。

実にその頃昭和19年著者は大阪帝国大学工学部航空学科に入学し、戦争に力を貸したいと考えていた。中学時代は理系でも建築工学を志望していたが戦争のため変更したのだ。

しかし昭和20年敗戦と共に航空学科はマッカーサー指令で廃止になり、電気工学科に転科した。吹田徳雄先生の下で絶縁破壊前駆現象の研究に力を注ぎ、気体、液体、固体における電子雪崩を実験した。今から思えばもう少し気の利いたテーマが欲しかった。

この延長線上に衝撃波の電離研究からプラズマ物理へ展開し、レーザーの出現によりレーザーによるプラズマ核融合の研究に発展して行った。大出力ガラスレーザー激光XII号の開発に成功し、レーザー爆縮による重水素の加熱、核融合中性子の発現に及んだ。

この1970~80年代の成果は大阪大学レーザー核融合研究センターを国際評価が高い世界の研究拠点に成長させた。組織が一挙に拡大したのである。その結果研究者の年齢が集中し、いわゆるピラミッド型年齢配置がとれず、40年たった今日人材の不足が将来の展望と準備を難しくしている。

新エネルギーの開発はわが国のかねてからの課題である。ぜひ現在の研究者が力を結集すると共に新人の養成につとめて、勢力を分散することなくチーム力を高めて、初期の目標に邁進して欲しいものである。

大阪大学は元帝国大学の中で新参であるためか、「我が、我が」の自己主張が強すぎる。東京大学の自ら備わる連帯感を見習わねば成長は望めない。

行く末が按じられる。

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山中 千代衛