山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 607)

2015・1・19(月) 1995年1月17日(火)

阪神淡路大震災から早くも20年が経過した。新聞、テレビでは震度7当時の惨状を伝え、追悼の言葉を綴っている。天皇皇后両陛下も神戸東遊園地にお出ましになり、6434名の犠牲者を追悼され、25万棟の倒壊、火災に対し遺憾を表明された。まことに突如としておきた大災害であった。昭和20年の大空襲と対比される。

当時筆者は姫路工大の学長で、この日は姫路の著名の人達の朝食会が予定されていた。前夜から駅前のサンガーデンホテルに宿っていたところ、午前5時45分ドンという音と共に激震があり目を覚ました。テレビで見ると神戸で相当の被害が出ているようであった。

8時旅館播龍の朝食会に出かけたが、常日頃なら30名近く出席のところ、藤本会長、他5、6人しか来ていない。その中自衛隊司令が出動命令がきたと中座しこれは大事だと直感した。

9時頃播龍の公衆電話で自宅を呼び出した。寝室のガレキの中で鳴る電話をとりだした由、やっと妻の無事を確認した。以後電話はかからなくなった。9時半大学の車を呼び寄せ工大に出勤し、長谷川 素由、三軒 斉教授と本日休講を決定した。大学構内は静かなもので施設の係が清掃をやっている。

兎に角一度帰宅することとした。途中姫路市外のローソンでパン、卵焼き、茶など買い込んで、高速道路は通れないので県道を三田へ抜け新神戸トンネルで三宮へ、新神戸駅から山手幹線に入ると4時半。渋滞つづきの一寸刻みで東へ、途中外を見ると暗やみの中人々がだまって列を作っている。見ると公衆電話の順番待ちの行列だった。

7時半自宅着。家内は本棚、食器棚すべて倒れ立ち所もない。ガラスの破片山積みである。裏の妹の家は1階がペチャンコ、2階が地上にあるという惨状だ。戎、大黒の鉄像が5m位飛んでいる。妻は布団の中で「止めて」と叫んでいた由。

昭和35年頃母が地震にビクともしない鉄筋2階建を作ったのだがその上に鉄骨の3階を増築したため、両者の間に亀裂が入った。半年以上青色のシートを被ったまま修繕待ちとなった。何しろ出入りの建築屋の主人夫婦が居室で圧死したという世情だったのだから厳しいものだ。

この時わが家では人身事故がなかったのは幸運であった。水道は止ったまま、ガスもだめ、18日夕刻になって一番に電気が来た。死者1000 人と報道されている。各地から見舞いの電話が届き始めた。

19日のニュース死者2500人と段々増加する。阪神高速3号線が倒壊したのは驚きだ。当地芦屋でも452人が亡くなった。被害は震災帯にそって阪神間を横切って発生した。阪急電車は西宮北口まで通じている。20日には関電総研からすし8箱、水3本、宗副所長がリュックサックで届けて頂いた。西宮から1時間半かかった由。大感謝である。

阪神国道は東行きの人、西行きの人で歩行者の列が途切れなく続いていた。この頃ニュースは死者4500人と報じている。

23日には池間運転手が芦屋まで迎えにきて、三田、三木を経て昼頃工大到着。1時より臨時評議会を開催し、阪神・淡路大震災の現状を把握した。学生部の調査では学生全員無事という。この頃スイス、フランス、アメリカなどから捜索犬をつれた救助隊が来たが、政府は入国に待ったをかけたという報道があった。時の村山首相は何を考えていたのだろう。

2月8日にやっと水道が通じ、通勤は三田まわりで往生したが、4月3日JRが復旧開通し姫路直行が可能となった。この時の為替は1弗85円とある。

阪神淡路大震災から20年、すっかり世の中は変わって1弗120円。今や日本は成熟期に突入したと言われている。新しい対応が求められる時代になった。ほんとうに10年一昔というから、もう二昔前の出来事である。人生まことに有為転変、何がおきるか神のみぞ知るである。

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山中 千代衛