山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 614)

2015・3・9(月) 山中龍彦君の逝去を悼む

年2月26日朝、中井貞雄君より電話、龍彦君が今亡くなったという。まことに残念の極みである。謹んで哀悼の意を捧げたい。

大阪大学レーザー核融合研究センターには山中姓の研究員三人組がいた。そのため各人は名前で呼ばれていた。すなわち千代衛先生、龍彦先生、正宣先生である。ところがこの若い二人が去年から今年にかけ亡くなった。ともにきわめて優秀な研究者で世間の広く認める所であった。

分けても龍彦君は筆者が教授になった時の第一号博士課程卒業生で、ガラスレーザー激光Ⅰ号を使って大活躍をした人物である。忘れもしない昭和44年大学紛争が吹田キャンパスにも波及し、筆者は評議員に任ぜられ、紛争対策の会議に借り出されていた。

その5月、名古屋大学プラズマ研究所のレーザー客員部門を吉永 弘先生の後をついで担当することになり、伏見康治所長以下全所員が注目するなか、物珍しい激光Ⅰ号レーザーを携え赴任した。随行者は山中龍彦助教授と姜衝富助手ならびに大学院学生二人である。

目的はプラズマ研究所ではプラズマ物理の研究にあけくれ一向に本来の核融合研究に手が届かない状態を打ち破り、現実に核融合反応を引き起こし核融合中性子を検出することである。

高山一男副所長以下一部所員は新しい試みに声援を送ってくれたが、大部分は批判的であった。山中龍彦君はその中で冷静に実験装置を独特の手法で準備していった。廻転鏡方式のQスイッチを完成し、大出力レーザー光をヘリウムで冷却して作った固体重水素ターゲットに照射した。まさに未知の開拓だ。ヘリウムは高価であるからガスバルーンに回収する。

当時モスコーのレベデフ研究所ではニコライ・バソフ教授がレーザー核融合中性子の検出を報告していたが、内容はノイズレベルのデータであった。昭和45年秋京都で開かれたIQEC国際会議で仏のリメーユ研究所のフランク・フランシスがレーザー中性子の検出を報じた。

残念なことに、これに遅れること半年、昭和46年7月25日龍彦君が「出ました」という。遂にわが国でもレーザー核融合の検出に成功したのである。伏見先生も「よし」とされ、次の日、日刊紙のすべて朝日、毎日、中日、産経、読売等が「レーザー核融合中性子検出、名大プラズマ研 レーザー核融合に成功」と第一面トップで報じた。

このデータは実際にはレーザー光のパラメトリック異常吸収を証明するもので、阪大レーザーは一躍国際的に有名になった。米国のレイ・キダーは「異常吸収の発見はレーザー核融合研究を軌道に乗せた」と評した。この件は論文に仕上げ、Physical Reviewに詳しく報告した。

昭和47年、第一回日米科学セミナー「レーザーと物質との相互作用」を京都で開催し、わが国のレーザー核融合研究への立場が不動のものとなった。5月には大阪大学のレーザー核融合研究センターの前身であるレーザー工学研究施設が誕生した。山中レーザー軍団の発足である。軍団はその後15年間国際的に大活躍をした。

山中龍彦君の緒戦における成功はその後の大発展を担保するものであった。京都大徳寺の尾関宗園師によれば「七十、八十は働き盛り」という。

龍彦君の七十五歳の死去は誠にもって残念至極、ぜひもう一働きして頂きたかった。

誠実にして、温厚、堅忍不抜にして実行力に富んだ生涯であった。

心よりご冥福をお祈りしている。合掌。

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山中 千代衛