山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 622)

2015・5・11(月) 知天時

孟子公孫丑下に「天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず」とある。ここでいう天の時はこれとはやや異なる。これは運命の扉が一瞬開く時である。人生にしばしば天の時は訪れるが、日頃の努力精進しつつワクワクしてこの時を待っていなければ、さっと通り過ぎてしまう。

果報は寝て待ては誤りであろう。少なくとも起きていないとダメだ。ところで筆者の経験を開陳すると、天の時は6回あらわれた。

中学、高等学校と進学するにつれて、始めは丹下健三や黒川紀章のような建築家を夢見ていたが、戦局は日々険しく、航空戦力が勝敗を決定すると見て、阪大の航空工学科に進学した。時すでに遅かったのだが、皮肉なことにアメリカの「ブラントルチィーチェンス」の航空力学全8巻を与えられ勉強した。国力の差は如何ともし難く昭和20年8月15日わが国は連合国の軍門に降ったのである。

やがて11月占領軍司令官ダグラス・マッカーサーの命令で航空工学の教育、研究は禁止となり、航空学科は閉鎖に、学生はそれぞれ転向を余儀なくされた。

日本の工学の将来に見切りをつけ、医学に進むもの、経済へ行くもの、それでも工学に残るものと色々道が分かれた。筆者はあまりの停電にしびれを切らし電気工学科に転科した。この時が最初の天の時であった。これが今日に及んでいる。

吹田徳雄先生の講義にひかれて電気材料分野に入ったが、内容は電気絶縁破壊の研究が中心であった。基礎的な物性学を含んでいるがやや時流とは離れていた。半導体研究こそ当時の本命であった。

しかし幸いなことに絶縁破壊の仕事で米国MITのフォン・ヒッペル教授の所に留学することが出来、昭和28年阪大から初めて公用旅券により海外に派遣された。この時の見聞が世界を眺望する機会となった。これが2番目の天の時である。しかしMITでは日本発明のテーマといってエレクトレットの研究を与えられ大変往生した。

第3の天の時は昭和38年電気工学第三講座の教授になったその3年前に、レーザーが出現していたことだ。これこそ新テーマとばかりかじりついてパワーレーザーの一大研究センターを目指した。大学紛争の最中名大プラズマ研究所客員教授を拝命し、阪大評議員を辞してレーザーで核融合反応を引き起こす仕事に没頭した。残念なことに阪大に残した山口元太郎君が紛争で亡くなった。

これを契機に石油危機に対応し核融合エネルギーを求めて、激光XII号ガラスレーザーで米国リバモア国立研究所と争い、烈光VIII号CO2レーザーで米国ロスアラモス研究所と対峙し、励電IV号電子ビームでは米国サンディア研究所と競合するという一大学でとんでもない研究展開を推進した。文部省の後押しと研究員の人の和もさることながら、山口君の魂が呼び起こした嵐であった。

第4の天の時は昭和62年大阪大学定年退官の秋である。財団法人レーザー技術総合研究所を設立し、レーザー同位体分離の研究で又もやリバモア研に対応した。この財団設立は1年早くても、1年遅くても出来なかったと科技庁の石田寛人さんがもらしたのを覚えている。

第5の天の時は昭和63年電気学会百周年記念の年、会長に選ばれたことである。全くの幸運で多くの知名人と交流でき、皇太子殿下夫妻も記念式典に御出席賜った。関西では電気学会会長は過去三人しかいないのだ。

第6の天の時は平成2年姫路工業大学学長に選出されたことである。大学経営のイロハを十二分に勉強する機会に恵まれ、今日の兵庫県立大学の基礎が出来上がった。

これらの経験から分かることは、日頃オサオサ怠りなく準備をすすめ、幸運の女神が顔を見せたら間髪を入れずその前髪をつかむことである。すこしでも逡巡したらもう天の時は過ぎ去ってしまうものである。

天の時に恵まれたと感謝しているがそれでも、第7の天の時がくるかと今でも期待している。さてどんなものであろうか。

天の時は日頃の努力精進によりその到来が分かる。まさに日々の積み上げこそが大切な礎となるのだ。「知天時、尽人事」が筆者の終生変わらぬモットーである。

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山中 千代衛