山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 640)

2015・9・14(月)食堂会の昔話

食堂会とは阪大電気系教室の教官の会合である。妙な名前で一時改名が称えられたが、昼食時に弁当を持って集まる会だからそのままでいいとなった。

年2回学外で8月と12月の宴会が定石となっている。昭和36年頃助教授であった筆者は幹事として12月に一大イベントを立案した。

永平寺に参詣し、山中温泉に一泊する計画である。寒い寒い永平寺で昼食をとり老教授連は皆不平たらたらで、その後山中温泉でゆっくり温まって頂いて、芸者をあげての大宴会であった。芸者が座敷の舞台で踊るのをやめさせ、お膳の前で踊らせた。大いに座が盛り上がったのを覚えている。長らくこの会席は話題になったのだった。

電気四講座 七里先生、吹田先生、竹山先生、山口先生、通信四講座 熊谷三郎先生、青柳先生、笠原先生、菅田先生、それに助教授、助手が加わる。40名位である。

芸者が帰ってしまうと、熊谷三郎先生をかこんで軍歌の大斉唱である。先生は旅順工大におられたから軍歌は得意、綿々と続くのだ。

「ここはお国を何百里 離れて遠き満洲の
 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下

 思えばかなし昨日まで まっ先かけて突進し
 敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか

 ああ戦の最中に 隣りにありしわが友が
 俄かにはたと倒れしを 我は思わず駈け寄りて

 軍律きびしき中なれど これが見捨てておかりょうか
 しっかりせよと抱き起し 仮繃帯も弾丸の中

 折から起る突貫に 友はようよう顔あげて
 お国の為だかまわずに 後れてくれなと目に涙

 後に心は残れども 残しちゃならぬこの体
 それじゃ行くよと別れたが 永の別れとなったのか

 戦すんで日が暮れて 探しにもどる心では
 どうぞ生きて居てくれよ ものなと言えと願うたに

 空しく冷えて魂は 故郷へ帰りてポケットに
 時計ばかりがコチコチと 動いて居るのも情なや

 思えば去年船出して お国が見えずなった時
 玄海灘で手を握り 名を名乗りしが始めにて

 それより後は一本の 煙草も二人分けてのみ
 ついた手紙も見せ合うて 身の上ばなしくりかえし

 肩を抱いては口ぐせに どうせ命はないものよ
 死んだら骨を頼むぞと 言いかわしたる二人仲

 思いもよらず我一人 不思議に命ながらえて
 赤い夕日の満洲に 友の塚穴掘ろうとは

 くまなく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって
 友の最期をこまごまと 親御へ送るこの手紙

 筆の運びはつたないが 行燈のかげで親達の
 読まるる心おもいやり 思わずおとす一雫」

そして次は
「旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル
 乃木大将と会見の 所はいずこ水師営

 庭に一もと棗の木 弾丸あとも著く
 崩れ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍

 乃木大将はおごそかに 御めぐみ深き大君の
 大詔のり伝うれば 彼かしこみて謝しまつる

 昨日の敵は今日の友 語ることばもうちとけて
 我はたたえつかの防備 かれは称えつわが武勇

 かたち正して 言い出でぬ『此の方面の戦闘に
 二子を失い給いつる 閣下の心如何にぞ』と

 『二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり
 これぞ武門の面目』と 大将答力あり

 両将昼食にして なおもつきせぬ物語
 『我に愛する良馬あり 今日の記念に献ずべし』

 『厚意謝するに余りあり 軍のおきてに従いて
 他日我が手に受領せば ながくいたわり養わん』

 『さらば』と握手ねんごろに 別れて行くや右左
 砲音絶えし砲台に ひらめき立てり日の御旗」
と続く。

それから「勇敢なる水兵」だ。
「煙も見えず雲もなく 風も起こらず浪立たず
 鏡のごとき黄海は 曇りそめにしつかの間に

 戦い今やたけなわに 務め尽せる丈夫の
 尊き血もて甲板は から紅に飾られつ

 弾丸のくだけの飛び散りて 数多の傷を身に負えど
 その玉の緒を勇気もて つなぎ留めたる水兵は

 間近く立てる副長を 痛むまなこに見とめけん
 彼は叫びぬ 声高に『まだ沈まずや定遠は』

 副長の眼はうるおえり されども声は 勇ましく
 『心安かれ定遠は  戦い難くなしはてぬ』

 聞きえし彼は嬉しげに  最後の微笑を浮かべつつ・・・」
と延々と軍歌が続き、記憶の限りを尽して一同合唱したものである。

ここではたと気づくことは、明治の軍歌はみな戦争の悲惨さを歌い厭戦の気風に満ちていることだ。

支那事変の「爆弾三勇士」の歌と全くトーンが違う。昭和の戦は全く道に外れたことに気がつくのである。

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山中 千代衛