山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 658)

2016・1・18(月)大学紛争の時代

1968年から69年にかけ東大医学部のインターン問題、大学運営に関し紛争が発生し、次第に全国の大学に大学の新体制をめぐり無期限ストや学部占領が始まった。

共産党系の民青同は暴力に出ることはなかったが、新左翼全学連はまずもって破壊という手法で立ち向かってきた。大学当局の中にもそれに同情する教員が多分にいて中々紛争は収まらなかった。

阪大でも全学同を中心に暴力を振るった。原子力研究科が占領され、山口元太郎助手がこれに立ち向かって死傷した。痛ましい限りである。連中はヘルメットを被り、白い6尺の角棒をもって、手拭で覆面し、まず投石をして14~5人で襲撃してくる。無言のままなぐりこんでくるのだ。

1969年阪大で電気系の復学式を行っていた時も連中がやってきた。その時はこちらも手勢が揃っていたから、主謀者を逮捕し、後ろ手に縛り上げて警察に突き出した。

これら一連の悲劇ののち、東大の安田講堂も警察機動隊3000人の放水と突入で開放され、騒ぎは次第に沈静化したのである。連中が進入した教室、壁には黒々と落書きがかかれ、革命を歌っていた。

筆者としてはとてもつき合い切れない感で、海外国とこれからレーザーを使ってプラズマ核融合で一決戦しようとする時に全く情けない話である。1972年大阪大学評議員を辞し、それ以来研究一本に打ち込んだ。これがレーザー核融合研究で阪大が世界のセンターの一つに数えられるようになった端緒である。

名古屋大学プラズマ研究所のレーザー客員部門を吉永 久先生のあと引き継いで、山中龍彦君、姜 衝富君、吉田国雄君、島村和典君らと共に出向したことがその後の発展につながった。プラズマ研の諸君に認められる業績が何よりの宝物であった。

今ではこれら一場の夢で物語にすぎぬ遥か昔の話である。

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山中 千代衛