山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 675)

2016・5・16(月)山中回想録(1)

大正12年12月14日父山中吉兵衛、母光子の長男として大阪難波元町の母の実家で誕生した。赤穂浪士討入りの12月14日で記憶しやすい。今年とうとう九十二歳になってしまった。

長年共に苦労した山中龍彦君が去年亡くなり、航空工学科以来の友人山村好弘君は今年亡くなった。長年の親しい付き合いで正月には相会合して近年の風潮や大戦のエピソードを互いに話し合ったが、最早これも叶わぬ夢と相成った。プラズマ研の所長だった内田岱二郎君も先日亡くなり世の中が急に寂しくなってしまった。

わけても親友山村好弘君は敗戦後航空学科が廃止され、兄の道を追って医学部に進学した。先の大戦では家を焼かれ、しばらく拙宅に家族一同退避されていた。兄君雄一氏は当時ラバウル航空隊軍医を経て駆逐艦の軍医として服務中であった

さて話を戻すが、大阪伝法小学校に一年早く入学させたいと母光子は学用品を揃え尾崎校長と交渉したが駄目だった。父が教育委員長をしていたので母が先を気にしたのだ。

小学2年生の時芦屋に移住し、宮川小学校に通った。5・6年担当の鈴木俊一先生はこのクラスから神戸一中へ5人卒業生を送り込んだ。大抵のクラスで一人だったのに特別の教育だった。公私にわたり大変お世話になった。

神戸一中はカーキ色の制服にゲートルを巻き、軍靴をはき、文房具はすべて白い風呂敷につつみ脇にかかえて登校する。この姿を母は四辻に立って見えなくなるまで手を振って毎日見送ってくれたものである。

何しろここでは戊申詔書を一読しただけで完全に暗記する能力のある生徒がいたるとても知力ではかなわない。持ち前の持久力で対抗するしかない。一学年5級で各50人、計250人で席次は40位だった。時には13番まで上がったこともある。

高等学校は戦時中でもあったので甲南高校理科乙類に進学した。入学競争率は27倍もあった。高校生活は気楽なものでノンビリ手足をのばし冬にはスキーに出かけたものである。

昭和19年9月大阪帝国大学工学部航空学科に進学したが、ここは秀才揃いであった。多くは三木義郎先生の飛行機設計を選んだが、小生は太田先生の材料強弱学をとった。

昭和20年8月敗戦と共に航空学科は廃止になり、電気工学科に転科した。この時代停電につぐ停電で電気工学は大変恵まれた立場であった。電気材料学の吹田徳雄先生の講座(当時助教授)に面談された。

枚方学舎に研究室を持ったが、研究室の中にテニスコートを安藤作業人が開設し、朝から夕方までテニスばかりしていた。テニスにあきたら柴田俊一君とピンポンである。夜になってやっと実験にとりかかる仕儀である。吹田先生は放任主義で思う存分遊んでいた。学位論文は「気体、液体、固体の絶縁破壊前駆現象」であった。可もなく不可もない状態である。

これではならじと起死回生をねらったのが海外留学である。南先生の推薦でロータリー奨学生を受けたが語学力不足で落選、そこでとったのが米会話レコードの聞きずめ策である。朝目がさめたらレコード、昼休みにもレコード、夜もレコードと集中した結果、MIT日本委員会南先生の目にとまり、昭和28年5月MIT留学が決まった。

船は阿蘇春丸川崎新造船の貨物船で乗客は4人、村崎寿満、室賀三郎(2人とも東大生)、いすず自動車の市浦 浩(慶応大)と小生である。家族一同に見送られ6月はじめ雨中出港した。ちょっとした別れの会だった。

船は北極圏まで上昇し、しけの中2週間やっとサンフランシスコに到着した。4乗客は毎日船長と同じテーブルで食事をし、船内をくまなく見て回り、ブリッジに上っては操舵を任され、太平洋の真中で360°回転した。あとは自動航行である。

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山中 千代衛