山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 676)

2016・5・23(月)山中回想録(2)

阿蘇春丸は2週間の航海を経てやっと金門湾にさしかかり、ゴールデンゲート橋をくぐって着岸した。遂にサンフランシスコ到着である。1室4名2段ベッド2台の生活は終りだ。一同4名米国入国を万歳で迎えた。

入国審査が済むとさすがMITである。ボランティアのおばさんが待ち受けていてサンフランシスコ見学、夕食後シカゴ経由ボストン行きの夜行列車に送り込まれた。

人生の節目は時々顔を出す。小生にとっていよいよ本番が始まったという感触であった。工学部電気工学関係で最初の渡米である。

3日3晩の大陸横断の旅も珍しい。昼食時に食堂車でおつりに米国一弗銀貨がきた。直径4cmはある銀製。これを見た同席の夫人が譲ってくれと、1弗紙幣と交換を申し出てきた。当方旅の初めでもあり、重いから喜んで交換を申し出た。その後在米中一回もこの貨幣には出会わなかった。

4日目の朝ボストン南駅に到着、又ボランティアの人に迎えられ、チャールズ河を渡ってMITのグラジュエートハウスに落着いた。この留学は「FSSP」というプログラムでMITの学生が組織し、全世界から50人を招待するもので、小生は英国の化学者モッツと同室になった。

それから今までに経験のない日々が始まったのだ。研究室はA. ホーンツヴィル教授の所で、先生ドイツなまりの英語しか話さない。なにしろ当時誘電破壊には英国のフレーリッヒとこのピッペル先生の高エネルギー限界説と低エネルギー限界説が相互に自説を主張、阪大吹田研究室はまさにその判断を迫られていたのである。

ところが残念ながらピッペル先生の指示は「エレクトレットの研究」である。日本人発明の誘電体だからとか。しかしこれはあまりに古典過ぎる指図である。カルナバー蝋の材料は電界下で帯電するが、空気中のイオンが付着して極性が変換してしまう。

やむなく静電部で電荷を計っていたら「えらい古典的測定器を使っている」と冷やかされる始末だ。真空中での実験顕微鏡が望ましい。とても物になりそうにない。それこそ当時はやりの半導体の研究でも出来たら100点満点だったのに。

元来仁田研究室で修業した吹田研究室の誘電破壊の研究も時代おくれだった。もっと新しい展開を計るべしだったが、吹田先生自身もその後電気工学から原子力工学に変わり、全く研究の継続がなくなった。

アメリカ人のホスピタリティーは誠に手厚いものだ。金曜日にお迎えがきて自宅に留学生を連れて行く。それも一人か二人、夕食後トークトーク、日本の戦時中の話を聞かれるが当方十分には答えられない。土曜日の朝は早速テニスに連れ出され、昼前には水泳に近くの河へ。

このあたりボストン郊外ホワイトウッドには金持ちの家が森の中にボツンボツンとある。午後は集団でソフトボール大会。イヤ疲れることこの上なしだ。そしてソウシャルダンスだ。

日曜日も略同様に過ごし、晩遅くグラジュエートハウスに送り返される。このもてなしが毎週相手が替わって行われる。ケネディー家にも呼ばれたことがある。まさにアメリカ生活の満喫である。

7月にもなるとタングルウッド音楽祭へ800kmをドライブして出かける。途中車がパンクしたが女性の運転で直せない。日本人3人も全く車の経験がない。留学生のオーストラリア人とマレー人が来てとっとと直してくれた。2晩泊まり草原に寝転んで音楽を聴くのだ。

小田 稔がすばらしいとベタ褒めである。まさにアメリカの夏の日の夢を体験させてもらった。人生をかくも楽しく過ごした経験は全くなかった。夢心地もいいところである。

村崎さんは米国航空中尉で大学院生ジェフの宿題をすらすら解いてやるので大変信頼厚く、夕食は彼の車で毎日レストランに送ってくれ一緒に食事をした。8ミリ映写機やレコーダーも彼が軍の酒保で買ってきてくれた。テレビも土産に持ち帰った。アメリカのいい面ばかり体験したのである。

9月になって東部工業地帯をバスツアーで2週間まわり、一応FSPSは修了書をもらって終りとなる。ピッペル教授から1年の契約をもらい、1月300弗ということまで決まったら、突然盲腸炎を併発、ボストン州立病院に入院手術、その後1週間MITの医務室で横になって療養した。入院費は保険が切れていて330弗要求された。

たまたま退院時に吹田先生がフルブライト留学で来られ、いろいろお世話をし、12月には帰国することにした。

いすずの市浦さんは9月早々に帰国、東大の室賀三郎君はブラウン教授の下に残り、ついにシカゴ大学の教授になり、米国に永住してしまった。村崎寿満さんはCALITECHに移り、しばらくパサディナに滞在し、12月に帰国された。後日阪大基礎工学に着任されそれ以来久しくつき合って頂いた。

帰りも貨客船武庫春丸で、その前日は港荷受人の太田家に泊めてもらった。その日本人は若者に気を遣ってくれた。2週間太平洋横断に日数がかかった。帰りは米国帰りの老人の庭師と同室だった。

アメリカ留学生生活はきつかったが、大変楽しくその後の運命の展開が見えてきた。帰国直後講師に任命された。まさに新しい人生の第一歩となった。

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山中 千代衛