山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 677)

2016・5・30(月)山中回想録(3)

帰国を待ちつづけた母は大喜びで迎えてくれた。さていよいよ帰国後の活動に入った。先の卒業研究「気体、液体、固体の絶縁破壊前駆現象」はそれなりに放電機構の解明につとめた論文だが、特別に新しい価値を見出したものではなかった。

放電の研究で新味を求め、吹田先生のアドバイス「君は航空学科の卒業だから、大学院では衝撃波によるイオン化の研究をやったら」に従って衝撃波の研究として通常の高圧衝撃波管を作り、マイクロ波で波面の形状を観測、中井貞雄君をその中心に据えた。また電磁衝撃波管は阪上幸男君がこれに当たった。また筆者も電子衝撃によるイオン結晶の電子移動を研究した。協力者は阪井英次君だった。

昭和31年に工学部講師に昇任し、昭和32年吹田先生が原子力工学科に転出されたので新しく電力講座山村 豊先生の下に助教授として配置換えになった。ADP結晶の育成やそれによる瞬間現象向きの高速度カメラを開発した。放電ハンドブックの編集に加わり、発電工学の教科書を山村先生と共著で発行した。

昭和36年電気系懇談会(食堂会)を幹事として山中温泉で開催し、永平寺を経て雪の北陸を満喫した。昭和33年には村崎寿満さんが基礎工学部に着任した。旧来の友情を深めた。

昭和38年竹山説三先生の後をうけ電気第三講座の教授に就任した。時代はいよいよレーザーの出現である。ルビーレーザー、He-Neレーザー、大出力ガラスレーザー、CO2レーザーとレーザーの開発に取り組んだ。

山口元太郎が日立から帰ってきて又賀 曻教授の下で化学を勉強し、山中研に戻って色素レーザーや液体(オキシ塩化セレン)レーザーを研究、窒素レーザーによる化学反応からNEET(同位体分離)の研究を井澤靖和君が始めた。これはウラン濃縮技術につながり、レーザーウラン濃縮研究組合が誕生した。宅間 宏教授がレーザー研に着任した。

昭和42年には吹田キャンパスに移転、電気系建設委員長をつとめた。レーザーレーダードームを電気系屋上に設営し、大気観測をはじめ、また半導体レーザーレーダーを東大LSH5ロケットに搭載し超高層の観測を実施した。

昭和44年には名古屋大学プラズマ研究所客員講座レーザー部門に任命され、激光Ⅰ号改ガラスレーザーを持ち込み、山中龍彦、姜 衝富君ら他2名のチームを派遣した。ダットサン小型自動車を私費で購入し現地の足にした。

苦労の末重水素固体ターゲットによりレーザー核融合中性子を検出した。プラズマ研究所は磁場閉じ込めプラズマの研究に集中していたため、レーザーが核融合中性子を検出するに当り我がチームは山中軍団と称され、団結と集中力で実力を遺憾なく発揮した。伏見康治研究所長も大変喜ばれて、その成果は朝日、毎日、読売など各紙のトップを飾り大評判になった。

伏見先生は阪大釜洞総長に手紙を出して下さり、「山中はいい仕事をしたので阪大帰還後も研究が続けられるように」と要請して頂いた。釜洞先生は「直接弟子でもない山中を推薦するとは気に入った」と言われ、そのお蔭で大阪大学工学部附置のレーザー研究開発施設が2部門新設された。

文部省の大山 超専門員から「山中さん宇宙をやるのか、核融合研究をやるのかどちらか」という注文がついた。勿論レーザー核融合によるエネルギー再生が目標である。

当時大学紛争の時代で評議員に選出され連日会議ばかりに追われていた。名大プラズマ研究客員の話にのって結果オーライであった。留守中山口元太郎君が全学連による原子力工学科封鎖を解除しようとして、不慮の死をとげた。痛恨の悲しみである。

理研の難波 進君がベルファーストのブラッドレイ教授にワシントンで会った時、「1960年の京都量子エレクトロニクスの会議ではぜひ山口教授に会いたい」と申した由。それほど強力に色素レーザーの研究をリードしていたのだ。

IQEC京都の前に山口元太郎はいなくなっていた。山口君は研究者としてよいセンスを持ち、レーザー研で大活躍が期待されていた。サッカーで鍛えた鋼のような筋肉の持ち主で、こんな結果になるとは夢にも思わず、誠に天が落ちた感であった。

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山中 千代衛