山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 678)

2016・6・6(月)山中回想録(4)

レーザー研当時の編成を考えてみると、中々よく出来ている。まず柔道の中井貞雄君1961年卒が中心で、剣道の山中龍彦君1963年卒、大阪府工業奨励館から戻ってきた1964年卒の井澤靖和君が挙げられる。

1972年大阪大学工学部付属レーザー工学研究施設が2部門で発足し、1976年には大阪大学付属レーザー核融合研究センターに発展し、6部門構成となった。

1963年発足した山中研設立前の時代の歴々は1950年矢沢一孝君が電通大に就職、1953年山田 正君ナショナル松下電器就職、1953年阪井英次君原子力研究所に入所、1957年佐々木康治君原燃を経て通産省へ、1958年和田弘名君現在もオプトエレクトロニクスラボラトリ社長を依頼している。1959年豊田浩一君は藤倉電線から山村研の助手になり請われて、理研難波 進君の所へ出向、1960年には南条 基君が大変から戻って助手、電子技術総合研究所に出向した。

この年の卒業生に和佐清孝君がいる。松下に在職した。そしと1961年田畑則一君三菱電機、1962年阪上幸男君、助手から岐阜大学、同年には山口元太郎君、姜 衝富君がいる。

これらが古い大学院生の一部である。

山中研発足以降京大から三間圀興君が参加し、東大から加藤義章君、望月孝晏君、東工大から矢部 孝君が加わり又長谷川 晃君もベル研から参加、陣容は一新した。

プラズマ核融合実験は山中龍彦君が中心で、疇地 宏君、西村博明君、白神宏之君等多数が参加した。レーザー開発は佐々木孝友君、山中正宣君、的場幹史君、北川米喜君、大道博行君、吉田國雄君、實野孝久君、宮永憲明君が参加。

理論及びシミュレーションは三間君を中心に西原功修君、矢部 孝君が加わり、高部英明君も続き、レーザー応用には特に同位体レーザー分離を中心に井澤靖和君、仁木秀明君、望月孝晏君、中島信昭君が参加した。中塚正大君が近畿大学から戻ってきた。

若手ではロチェスター大から田中和夫君が6年振りに復帰し、乗松孝好君がターゲット製作を高木 勝君とすすめた。この他助手では阪部周二、白神宏之、中井光男の諸君が加わり、教務員では福田優子、澤井清信、北村寿男、吉田英治、漆原新治、川崎鉄次、森尾 登、斉藤昌樹、前川 修君らがいた。

共同研究員には大東延久君、綱脇恵章君、車 信一郎君、金邉 忠君、西口彰夫君、村上匡且君、遠藤琢磨君、陳 延偉君、中村賢志君、秋葉龍郎君、兒玉了祐君、古河裕之君、陳 基忠君らが活躍した。又財団法人レーザー技術総合研究所を阪大退官時に設立し、レーザー同位体分離、レーザー誘雷などレーザー技術の応用につとめた。レーザー総研の秘書は片岡紀子さんで現在も活動して頂いている。

この他レーザー学会の事務局を併設していて「レーザー研究」を毎月発行してきた。

1992年当時総員104人、事務局南 吉彦氏以下16人、レーザー学会4人の大世帯であった。これらの人達が泰山会を形成し、会長は小生、副会長は中井貞雄君であった。

このレーザー核融合研究センターを中心に公益財団法人レーザー技術総合研究所、社団法人レーザー学会の3本立てで研究が発展していった。まさにレーザー研究推進のため構築した山中軍団は団結力が強く、新しい研究の新天地を開拓していった。

今思えば時代の背景がよく、国の理解もあり、すべてが順調にすすんだ。国際競争力は抜群でリバモア研、ロスアラモス研、サンディア研に一歩も引かなかった。まさに奇跡である。

8部門の増設の計画もあったが、山村雄一総長の要請で細胞工学センター(岡田善雄教授)の申請を先行することとなり、その後山村総長も退職されたため、さらなる拡張は中止となった。それでも世界のレーザー核融合研究センターとして重要な地歩を占めつづけた。

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山中 千代衛