山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 680)

2016・6・20(月)山中回想録(6)

筆者は1923年12月14日、父山中吉兵衛、母光子の長男として母の実家難波元町で生まれた。子供が長らくなかったので両親の熱愛をうけて育った。小学校に上がる時、文房具、鞄をそろえて伝法小学校尾崎校長先生に母は交渉したが、一年早ゆきは許されなかった。

父が教育委員長をしていたので、お願いしたが駄目だった。後年阪大工学部の山村 豊先生が長岡で一年早く入学され、体力的に相当無理があったとしばしば聞かされた。

小学3年の春から芦屋の宮川小学校に転入した。ここで5・6年の受持ちは鈴木俊一先生で、この年5人神戸一中に入学した。普通各クラス1人位が進学するのに5人は異例のことであった。指導技術が極めて優れていたのだと思う。

神戸一中に例のカーキ服でゲートルを巻いて、白い風呂敷づつみに教科書を包んで通学するのである。きわめて軍国主義的な教育で高等学校への進学率は高かった。

中学一年の時は母が四辻に立って見えなくなるまで手を振っていたのを覚えている。余程うれしかったのであろう。戦時中でもあったので高等学校は甲南理乙を選んだ。妹は3人、長女錦、次女緑、三女?乃で共に兵庫県立第一高等女学校に進学した。

長女錦が5年生、次女緑が3年生、三女?乃は1年生という次第で、?乃の言うには全学体操で長女錦が少し手を抜くと「山中 錦さんのためもう一度」と号令が全員にかかった由。

この長女は去年米寿の祝いのあと急に亡くなった。残念なことである。山中家が北の分家を作っていて、シベリア帰りの後藤芳雄さんと結婚し一男三女の母になっていた。とてもいい性格で皆に好かれていた。

次女緑は日本圧延の稲垣誠夫さんと結婚、一女をもうけている。聖心の出身で幼稚園の先生をしていた。三女?乃は東大出の医師榎本浩晶さんと結婚し、逗子に住んでいる。これも母の考えで、小生が東京方面に出張した時拠点になればということである。三女?乃の京都女子専門学校での同級生が妻の樫田民子である。やさしい性格で大変気に入っている。

二人の間には長女薫、長男千博が生まれた。薫は神戸女学院大学に、長男は阪大理学部地球物理に務めている。

長女薫は医師溝口 明と結婚し、近所の芦屋市松ノ内町に住み一女をもうけている。

長男千博はロータリーの友人吉村 明さんの長女吉村祐子と結婚し、六甲アイランドに住み、長女紅於、長男晟史が生まれている。

父山中吉兵衛は昭和42年2月糖尿病で亡くなった。母は長命で平成2年11月、一年間の骨折が原因でとうとう亡くなってしまった。昭和天皇崩御の2日前であった。

「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり。身を立て道を行い、名を後世に揚げ、もって父母を顕わすは、孝の終わりなり」と考経にある。

何とか今までうけた親の徳に応えたいものだ。

お便りはcampaign@optolab.co.jpまでお願いします。

山中 千代衛