山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 684)

2016・7・19(火)山口元太郎君の思い出)

山口君は神戸一中の後輩で、サッカー部主将、ゴールキーパーを務める好青年であった。筋肉隆々として盛り上がり、体力も気力も十二分であった。

阪大工学部電気工学科西村研の卒業で、日立に入社したが家電に配属になり、研究に戻りたいとの強い希望があった。

そこで基礎工大学院で修業させることにし、坪村研に入所したが又賀教授の指導の下で化学、りん光分光度計を駆使する訓練をうけた。化学出身でなかったため若干苦労はしたようだが、見事に成長し山中研に移ってから、多分に成果を上げた。特に色素レーザーに応用するのは最適であった。

難波 進君によると1969年ワシントンでレーザー応用の国際会議があり、ベルファストのブラッドレイ教授から、「1970年の京都でのエレクトロニクス国際会議ではぜひ山口教授に会いたい」と言われた。山口次郎教授が前任者だが、レーザーとは関係がなかった。色々話していると山口元太郎君のことと気がついた。

ところが1970年には山口君はもうこの世にいなかった。大学紛争の年で原子力工学科が全学連に封鎖され、これの解除に向かって感電し、一命を失ってしまった。名古屋大学プラズマ研のレーザー客員部門に出張中で、この事態を防ぐことが出来なかったのが心苦しい。

大学の対応は全く不十分、教授の中には全学連支援者もいて、全くどうにもならぬ大学管理が行われていた。今もって残念でしようがない。

山口君は研究者として良いセンスの持主で、山中教授の指導の下、大波に乗りスベリ出してきたのに、国家のためにも大損失である。田中紘幸君曰く、僕のお尻はサッカーボール。山口さんにすぐ蹴りを入れられる。

釜洞 醇太郎大阪大学総長の題字「不死鳥」という記念誌を発行したが、瑳智子夫人との間に健太郎、勇二郎と2人の子供も出来、将来が明るく開けている中、突如として他界してしまった。「自ら殺して死なない奴」と称していた若者の姿が瞼に浮かんでくる。

こんな不幸な日がやってくるとは世の中ひど過ぎると言わざるを得ない。彼こそ山中研の守り神である。生存しておればきっと化学レーザーの大教授になった筈である。

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山中 千代衛