山中教授のマニフェスト(OELキャンペーン 685)

2016・7・25(月)山中回想録(10)的場幹史君の思い出

村崎寿満教授(基礎工)からレーザーをやりたいとやって来たのが的場幹史君である。元々機械工学科の出身だから畠が少し違った。

とても熱心な学生で、輪講室の彼の定席の絨毯は毛がすり切れていた。質問の順番をイライラしながら待っていたことになる。

極めて実験に熱心な中井君の配下として、大道君らとロスアラモス研のアンタレスに対抗してCO2レーザー烈光Ⅷ号の建設に没頭した。数年かけて大体形が整って8台にレーザー基体が出来上がった。

いよいよ火入式という時に急に発病した。X線の照射も原因の一つである。入院で手当を受けたが粟粒結核が見逃されていて、その後急に亡くなった。

「レーザー核融合が出来るまでは決して死なない」と強く信じていたが、空しく亡くなった。まさに虚空をつかむという死様であった。まったく惜しい青年をなくしたもので残念であった。

若くして亡くなった一人である。幸い息子さんがすくすく育ち一人前になったのは何よりである。的場清子夫人の努力は大変なものだった。

若くして亡くなったのは山口元太郎君と1982年8月6日死去の的場君の二人である。共に優秀な研究者で、世界中に通用する人々であった。

大阪大学レーザー核融合研究センターの大きな痛手であった。CO2レーザーは波長が長く19μもあるので、高速電子を加速し、核融合には向かないと後日判明した。アンタレスも中止となった。

的場君の開拓した新技術は今でも広く応用され、励起CO2レーザーとして定着している。

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山中 千代衛